コロナだったけれど
2020年が今日で終わる。
早かった。
コロナが今年の初めに広がりを見せ始めたのがまだ最近のことのように感じる。
都心部が日々感染が広がっていく様子がニュースで流れる一方、鹿児島ではなかなか広がりを見せることはなかった。
感染が拡大する気配がないまま5月に緊急事態宣言が出されたが、自粛ムードが広がった。イオンに買い物に行っても人はまばらだった。
自分としては、仕事の昼休み中に今まで通り食べに出たり生活での変化は特になかった。
9月頃だったか鹿児島でも天文館の”おだまlee男爵”でクラスターが発生した。
しかし、それでも大きな感染拡大はなく終息した。
振り返ってみれば、やはり生活にこれといった変化はなかったように思う。収入も減らず、外食や買い物も普通にする。普段から天文館やパチンコにも行かないし、バス、電車に乗らないといったことも生活に変化がない要因ではあったと思う。
人間の大敵
自分の中で2020年といえば、じいちゃんが逝去した年だ。
いつも一日違いで結局、容体が変わってからは会うことが出来なかった。
気力だけは強く、がんの末期で歩くことも出来なくなっていたけど、死ぬ前日にも看護師にもう一度歩けるようになるだろうか、と話していたそうだ。
会いたかった。
一度入院してしまうと、たとえコロナじゃなくても面会は出来ない。
じいちゃんは、余命3か月の末期がんが発覚したため、ホスピスに移ることになった。2週間ほど国立病院に入院していたが、その間に一気に痩せ別人のようになっていたそうだ。確かに遺体を見たときは、生前の姿からは想像がつかないほど痩せこけた顔に驚いた。
ホスピスでは緊急時だけ面会が可能だった。自分は、それを聞いて翌日は仕事を休んで熊本まで見舞いに行くつもりだった。
けれど、そうと決めた日の夜中に母親から電話があり、それがじいちゃんの訃報だった。
志村けんがコロナに感染したときに、面会できない悲惨さが報じられたが、それを身をもって体験した。
じいちゃんのことを考えると辛い。家族の誰とも顔を合わせることがないまま、入院させられたそうだ。母親も「じいちゃん頑張ってね」と声をかけることも出来んかったんよ、と話す。一体、どれだけ不安だったかと思うと本当に辛かった。
ホスピスに転院する時に、介護タクシーが使われ家族が3人まで付き添い出来た。父親が、もうすぐ稲刈りを迎える家の田んぼを見せたいと言い、移動途中に田んぼに寄ったところ、じいちゃんが泣いて喜んだそうだ。
どれだけ、キツイ体であったかは想像がつかないが、涙を流して喜んだじいちゃんに思いを馳せるとやはり、こみ上げてくるものを抑えることが出来ない。
じいちゃんは気力はある、と確信したこともあって、面会できると分かった翌日には見舞いに行くと決めた。じいちゃんの顔を見たら、泣いてしまうだろうが、お構いなしに号泣しようと思っていた。じいちゃんには色々言いたいことはあった。とにかく、感謝の気持ちを言いたかった。それと何かじいちゃんを少しでも良いから元気づけられる言葉をかけたかった。
結局、1日も猶予はなかった。
憎むべきはコロナであることは間違いない。けれど、やはり、病院がおかしいんじゃないかと恨んでしまう。2週間で痩せこけてしまうなんておかしいだろ、と何度も思った。実際、食事なんか1割食べておしまい。別に看護師も食べさせはしない。
家にいたころは、母親が食事を食べさせていたから、じいちゃんはまだふっくらとはしていたようだ。母親が何が食べたいか聞くと、三ツ矢サイダーと刺身と答えたそうだ。
食べれば、「美味しか」と言っていたし、食事を食べさせてもらえば「すいませんなぁ」と母にねぎらいの言葉をかけていたらしい。
家に帰りたい、それがじいちゃんの最後の本当の願いだっただろう。
先ほどの、ホスピスへの移動の際に、家に帰りたい、そうこぼしたそうだ。
母親の前職は介護福祉士だ。食事や身の回りのことを満足させてくれる仕事は尊いと思う。看護師も素晴らしい仕事なのだろうけど、介護福祉士という仕事はそれとは別の次元で素晴らしい。看護師ではなく介護士がじいちゃんに食事を与えていたら、もっと食べていただろうし、もうちょっと長く生きれていたような気がしてならない。
アフターコロナ・・・?
病院関係者が大変なのは分かる。
しかし、ニューノーマルとかアフターコロナと言われるように、いつかは新しい日常を迎えるだろう。
でも、その新しい日常では、大切な家族が安らかに死を迎えられるようなものであってほしい。